おいしいおだんご

ブログです

拝啓きみへ

 

個性ってなんなのというのはわたしの永遠の研究テーマなのかもしれない。

変な服を着るのが個性なのか、インディーズバンドを聴くのが個性なのか、髪を奇抜な色に染めるのが個性なのか、集団から外れるのが個性なのか、協調性がないのが個性なのか、うるせえ、個性とか没個性とかもううるせえ、みんな黙ってチョコボールを食え、ピーナッツ味かキャラメル味かいちご味かの三択でどうにか少数派になろうとする醜い遊びをやっとけ、エンゼルが出たらわたしにくれ。

 

わたしは昨今つかわれている"個性"にどうにも懐疑的で、みんなが飛びつく個性的というワードにどれだけの意味があるのか不思議でしょうがない。みんなが同じように使っている「個性的」に、「個性的」になりたいひとが求める意味はちゃんと存在しているの?

 

個性って、個人が持っている性格、考え方、感性、そういうもの。それが世の多数派と同じかどうかなんて「個性」そのものにはなんの関係もなくて、たとえば「わたしは流行に乗りたい」というのも個性だし、「みんなが聴いてる音楽を聴きたい」というのも個性じゃないですか。ある事象をどう捉えるか、自分をどういう方向に持っていきたいか、そういうことを決める、自分をかたちづくる基準のようなものが個性で、それ自体はきわめて内在的なものだ。その内容がどれだけ大衆的でも。

少数派へ、周縁へと逃げていく"個性的"なひとびとの、彼らをかたちづくる基準が「多数派とは違うものを選ぶ」になってしまっているのだとしたら、それこそ個性を外部化している"没個性"なのではないか。それが彼らの確固とした信念ならそれで良いのだけど、そうと気づかずに今日も「個性的」を追い求めるひとびとがわたしには悲しい。

 

さて、それをふまえて、きみがわたしの外見に対してどれだけ「没個性」「量産型」と言おうとべつにかまわないのだけど(すこし傷つくけれど)、わたしはわたしがほんとうに大事にしている「穏便に生きる」という基準、個性だけは絶対に譲れなくて、これだけはきみにもわかってほしいと思っていた。

わたしはどんなものごともできるだけ円滑に進めて穏便に済ませたいひとで、そのために常に周りに気を遣いながら生きている。「この人はこうしたら喜ぶだろう」「こう言えば気に入ってもらえるだろう」と考えながら行動するのはわたしにとって立派な"個性"で、それを得意とする自分のこともわたしはたいへんに気に入っている。

だからこそ、わたしは"個性"や機嫌の悪さを乱暴に振りかざして場の空気を壊す人や、言動の中に相手への気遣いをかけらも感じられない人のことがほんとうに大嫌いだ。つまり意味なく(わたしと関係あるにしろないにしろ)機嫌が悪いときのきみが電話中に黙り込んだり、ラインの返信をおざなりにしたり、ツイッターに「イライラする」なんて旨の投稿をしたりするのがわたしほんとうはほんとうに嫌い。それがきみの個性なのかもしれないし、わたしはほかのものごとと同じようにきみとの関係も穏便に進めたいから何も言わないけど、ほんとうは大嫌い。機嫌の悪さが滲み出るくらいなら電話もラインもツイッターもするな、寝ろ、チョコボール食って寝ろ、ただ寂しいから機嫌が治ったら電話して、エンゼルが出たらわたしにちょうだい。

 

つまりこれはきみに対する愚痴、なのです。

ネットで愚痴をこぼすのは上記のわたしのポリシーに反することではあるのだけど、まあ、ここではわたしがルールだから、しょうがないね、許してね。