おいしいおだんご

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チカチカする

 

半身浴をしていた。ぼんやりとした照明が甘ったるい湯気でますますぼんやりしてしまうことと、恋人が入れてくれた入浴剤が必要以上にヌルついていることに苛つきながら、何となく左乳首を触ってみる。かわいい、すこしだけ凹んでるわたしの乳首。わたしの身体はわたしのものなんだろうか?わたしの祖母は宗教集団大本の信者で、小さい頃はよく子供を集めた研修会みたいなものに参加させられていた。そこできみたちの身体は神様に与えられたものだから大事にしなきゃだめだよ死んだら神様に返すんだからね、と、臓器提供意思カードに拒否の印をつけるよう強制されたことに激しい抵抗を感じた記憶がある。まあ強制されることがなんでも嫌な時期だったから逆を強制されてもきっと拒否したのだろうけど。

 

最近よくコーヒーを飲んでいる。寒いから温かいものが飲みたくて、恋人の家にはバリスタの機械があるから勝手に使う。コーヒーは別に嫌いじゃないんだけどコーヒーを飲んだ後の口内の不快感はいつまで経っても慣れない。そもそもわたしは口内に何かを摂取した痕跡が残るのが好きじゃない。生の玉ねぎを食べた後の口内がいちばん嫌い。それを我慢してでもコーヒーを飲む。

 

わたしはずっと子供のままでいるつもりなのだと思う。ここで子供というのは幼さではなく未熟さのことを言いたい。わたしはいま未熟だからこれからどんどんすごくなっちゃうんだぞという感覚が常にわたしを支配している。コーヒーだってそう、飲めなかったコーヒーだってわたし飲めるようになっちゃうんだもんね。わたしが肉まんなら中の餡が自己(知識・才能・センス)で、小さな小さなそれを皮で覆って大きく見せているのだけど、いつかはその厚すぎる皮に見合った餡に育てあげたいとわたしはいつも思っている。けれど一度包んでしまったらもう餡を追加することはできないのでは?シュークリームに喩えたらよかったのかな?でも皮が傷付けばその傷から餡を押し込むことはできるよね?そうやって圧倒的な自己肯定感の低さを誇大で覆っているのが人間であるとわたしは理解していたのだけどほかのみなさんは違うのかもしれない。どうなんですか?みなさん?とにかく文章を書くのにつまらない喩えを使うやつが一番クソなのは知っている。

 

美しいものが好きだ。美しいものを好きな自分でいたかった。冬の夜、冷たい風に乗ったわたしの白い吐息が信号機の緑色をぼやけさせる様子にいちいち心動かされていたかった。美しいものを好きでいたいわたしはしかし何が美しいのか判断する基準を美しくない自分に委ねきることができなくて、本当に、心から、自分で美しいものをみつけて愛でられるようになる"いつか"をずっと探して歩いている。そんないつかは永遠に来ないことはわかっている、わたしは存在しない自分の伸びしろに全てを託して甘えながら生きて、そして死んでゆく。