おいしいおだんご

ブログです

いかり

 

わたしの大好きな人の口から、あなたはメンヘラだねということばが出てきたので、わたしはもう腹を切って自害するか、きみをぐちゃぐちゃに殺して遠くへ逃げるしかなくなってしまった。困った。

 

わたしはきみの、好きなことを好きなようにする姿が好きで、自分のことが好きなのに嫌いだし、自信に満ちているのに自信がないというアンバランスさが好きで、わたしのことが大好きだけどいつもわたしを小馬鹿にするような軽口を叩いてしまう子供っぽさが好きで、そのくせ時々沈んだわたしを励まそうとしてわたしの深さまで降りようとしてくれる(その成功率は決して高くはないけれど)ところが好き、なのだけど、それには限度というか、ちょうどいい割合のようなものがあって、それに気づいていないきみがわたしには時々辛いのです。

冗談だからいいじゃん、で終われる冗談にはきっとラインがあって、そのラインはそれぞれ違っていて。たとえば相手の大事にしているものを貶すとか、相手の本質である性格・人格をバカにするとか、そういうことは冗談であってもわたしには「してはいけないこと」の範疇で、もちろんわたしのことが大好きなわたしにはわたしのラインが世界基準でいちばんすてきなラインなのだけど、わたしは他の人が違うラインを持っていることを知っていて、できるだけそのラインを踏み越えないようにその人のラインを探りながらコミュニケーションをとるようにしている。きみにもきみのラインがあって、わたしと同じようにきみもきみのラインが世界基準だと思っているのは知っているけど、王様であるきみは他の人が他のラインを持っていることを知らないみたい。

 

そんなきみには他者のラインを探りながら生きているわたしが「考えすぎ」「悲観的」「メンヘラ」に見えるのかもしれないけど、そう見えてしまうきみの瞳がわたしには悲しい。わたしはきみのラインを探りながらきみと接しているのに、きみは近くにいるからという理由でわたしのラインの存在を知ろうともしない。わたしがきみのことを想って涙を流しているだなんて思わないでよね、このギャップからわたしを救い出す術がわたしにしかないという事実が、わたしには重すぎて辛いというだけなんだから。

 

わたしはわたしが賢いと知っているから、きみにわたしまでの気遣いを要求したりなんてしないけど、わたしがこれはやめてほしいのよねと言ったことくらいは、ちょっと気をつけてみてくれてもいいじゃないのと、そう思うとつい涙がこぼれてしまうのです。それがきみの本質・性格・人格なのだとしたら、わたしにはそれをどうにかしろということはできないけれど、ね。

 

これは悲しみなんてかわいいものじゃなくてたぶんわたしが初めてきみに対して抱いた怒りなのだけど、わたしは怒っているわたしのことが好きじゃないので、せめてこの気持ちを忘れないように、わたしの体にきつく結びつけて海の底に沈めておくことにする。

怒りをぶらさげたわたしは錨をぶらさげたままきみのシャツの裾を掴んでおくから、せいぜいきみは一緒に沈んでしまわないようにがんばって泳いでね。

工事中

 

わたしは土台づくりに失敗したレゴブロックで、基礎が固まってない工事現場で、下のほうがスカスカになったジェンガなんだとおもう。わたしを確かに構成する基礎であるはずの彼女は、わたし建設の序盤においてきれいさっぱりどこかへ消えてしまった。

 

さて、そうして彼女からバトンを受け取ったわたしはそれでも工事を続けるほかなく、不安定な土台が崩れてしまわないようどうにかバランスを取りながら、あるはずのない完成形を模索し続けているのである。

 

だからどうということはないのだけれど、基礎がしっかり固まっている人というのは見ていて何となくわかるもので、安定した土台で着々と工事を進めていく彼らをわたしたちはゆらゆら揺れながら羨んだり妬んだりしている。いや、嘘、べつに羨ましくなんてないけど、わたしたちの大好きで大嫌いな社会は盤石な基礎を前提としてわたしたちを評価してくださるので、それを持っていないわたしたちはそれを持っていないという理由でいつも怒られてしまう。それがどうしようもなく悲しいのだ。そんなのわたしのせいじゃないのにな。わたしはこんなにがんばってるのにな。

 

常識、普通、世間、結局わたしはそういう類のものにいつも囚われていて、それを持っていないから何だっていうんだ、と、いちおう開き直ってはみるのだけど、やはりそれが欠けていることに引け目を感じている。そうするときみはそんなのいらないよ、あなたはあなただよ、なんて言って優しく慰めてくれるのだけど、結局きみの網膜にうつるわたしには「世間知らずな子」というシールがくっついている。このシールは彼女がいなくなったときからわたしにずっとくっついたままで、あんまり長いこと貼られているから、粘着面がこびりついて取れなくなってしまった。

常識とか普通という概念(または一般的な常識とか普通を形づくる基準)は、つまり工事の基礎になる部分で、その後のわたし建設のマニュアルになるものなのだけど、ゆらゆら揺れながら次のステップを模索して、その場しのぎでなんとか工事を続けてきたわたしにマニュアルなんてあるわけがなくて、その存在を知ったときにはもう「世間」から「常識」を要求されていた。

わたしは賢いからそんなものいらないじゃないのと1人でぷんぷん怒ることはできたのだけど、「世間知らず」に冷たい世間様のなかでそんなのいらないわと言い続けることができるほど強くはなくて、「常識」を試される抜き打ち試験ではその都度拾い集めた常識「っぽいもの」をびくびくしながらこねくりまわし、うまく解答できたらひっそり喜ぶということを繰り返してきた。

 

みなさんの言う「常識なんてなくていいじゃない」はみなさんの知っている「常識」の範囲内での「非常識」で、安全地帯から「非常識を許容するわたし」を発信しているだけで。「いいじゃない非常識、ロックン・ロールじゃない」と言う人にとって、電車内で奇声を発するおじさんや駅のベンチで毛布にくるまるホームレスは「ロックン・ロール」じゃない。それはべつにわたしならそういうひとびとを優しく抱きしめて頭を撫でてあげられるわよということではなくて、あるイベントをどう捉えるかはその人しだいだということなのである。だとしたら、常にみんなが持つ知識や普遍に通ずる基準なんてものは存在しないじゃない。常識なんて持ってなくていいよと慰めてくれるひとびとは、結局のところ確かに存在する常識を持っている/持っていないのフィルターを通してわたしを見つめている。

 

そんな世間知らずのわたしはしかし、全力でわたしのことが大好きで、不安定なまま工事を続けているわたしのことを精一杯誇りに思っていて、こんなにすてきなわたしを作り上げてきたわたしの建設基準は宇宙一すごいと思っている。これはもしかしたら冷たい世間から身を守るための防衛機制なのかもしれないし、いなくなってしまった彼女とのつながりを保つための強がりなのかもしれないけれど、だとしたら、それも含めてわたしはわたしのことを体じゅうで愛さなければならない。わたしのわたし建設基準は、わたしの「常識」は、きっと「わたしが好きなわたしになること」なのだ。

 

もっと高く、もっと強く、もっと美しいわたしを作れますように。

彼氏が煙草を吸っていた

と、いうことをつい数十分前に聞いて、わたしはなんだかもうどうしようもなくなって、涙が出そうになってしまった。

 

彼の好きなものは、インディーズバンド、洋服、写真、お酒、で、わたしは彼の、好きなことを好きなようにしている姿が好きなのだけど、彼が好きなもの・こと・趣味その他を増やして楽しむぶんだけ、わたしの彼を好き度は高まっていって、わたしの好きなもの=彼になってしまう。

彼がわたしの何を好きでわたしのことをどう思っているのかは知らないけど、彼に好きなものが増えるたびに、わたしという存在もそのうちの一つにすぎないのだろうなという気持ちが強くなる。ずるいなあ、わたしだってわたしだけで楽しく生きられるはずなのに。ほんとうはきみより全然すてきなはずなのに。

 

もともとわたしはわたしのことが大好きで大好きで大好きなので、他のものや人を好きになる余裕なんてほとんどなくて、どんどん色んなものを好きになるみなさんはすごいなあと思っていたのだけど、いざ誰かを好きになってみると、やっぱりそれ以外のものにまで手を広げる余裕がなくて困っている。わたしはわたしだけに夢中にならないきみだけに夢中になってるけど、きみはどうなのかな。きみがきみだけに夢中になっているわたしが好きなんだとしたら、きみ以外に夢中になれるものができたとききみはわたしを嫌いになるかな。

 

ついさっき、2回めのセックスを終えたあと、煙草を吸っていいかと彼に聞かれた。吸ったことがあるということは聞いていたけど、継続的に吸っているということは知らなかった。灰皿がわりのアルミホイルを受け取った彼は、ごめん、隠してた、と言いながらベランダに座った。「嫌かなと思って」

長時間一緒にいるという点から考えて、彼氏が煙草を吸うのがプラス評価かマイナス評価かと問われるとマイナス評価ではあるけれど、煙草を吸うことじたいは良いとも悪いとも思わないし、何よりわたしは好きなことを好きなようにしている彼が好きだということを、まったくわかっていない彼がどうしようもなく悲しかった。煙草くらいなんだ。わたしからの評価なんて気にしないでよ。つまんないきみにならないでよ。

 

とにかくわたしはもうほんとうに悲しくて、寝息を立てる彼を横目にベランダに座って泣きながらこれを書いている。風邪をひいてるし、彼とのセックスでまだ一度もイったことないし、生理が来て下腹部が痛いし、こうやってきみのことばかり考えるようなわたしは嫌だし、夜風がちょっと冷たいし、金木犀の香りがするし(きみのいちばん好きな香りだし)、ほんとうに悲しい。わたしはいま世界一悲しい。

 

この夏一緒に19歳になったきみとわたしの関係を、わたしはまだうまく消化しきれないままで、たぶん消化しきったときに、この関係は終わってしまうのだろうけど、とりあえずしばらくはこのままベランダで、満ち満ちた金木犀の香りの隙間からきみが吸った煙草の匂いを探すことにする。きみの煙草の副流煙はきみへの想いとともにわたしの肺を満たすけど、きみの肺にはわたしは侵食しない。

明日風邪が悪化していたらきみのせいにするけど、それくらい許してよね。

惹かれる

 

そもそも人は自分が持ってないものを持っている人に惹かれるはずなのだけど、ねえ、神さま、この仕組みはどうも残酷じゃないですか。

 

わたしのすきな人は趣味も特技もすきなことも欲しいものも行きたい場所も確固とした考えもぜんぶ持っていて(すくなくともわたしにはそう見えていて)、それらはわたしが持っていないもので、ずっと欲しいと願っているもので。

 

わたしが持っていないものをすべて持っているその人はわたしにとって非常に魅力的で、きれいな宝石なのだけど、じゃあその人が持っているものを持っていないわたしはその人にとって何なのだろうかと、ふと気付くとどうしようもなく逃げ出したくなる。

きれいですてきだから近づきたくなって、でも近づくとじぶんがきれいですてきじゃないことに否応なく気づかされて、でもきれいですてきだからその場から逃げられなくて。

 

わたしはわたしにわたしのことを大好きになってもらえるようにわたしの身を振って、その結果として自己愛のかたまりとしてのわたしができあがって、あたかもわたしは何でも持っているような、どんなことでもできるような感覚を持ってしまう(実際わたしはわたしがいちばんすごいと思っているし、その考えは宇宙一正しいと思っている)。

 

のだけど、そうして出来上がったわたしのそばにいることをいざわたしのすきな人が選んでくれたとき、ずっと目をそらしてきたわたしは本当はなにも持っていないという事実と、その人が選んでくれたわたしのかたちがぐちゃぐちゃにぶつかって、お腹の右奥のほうがずきずきと痛みだす。だってきみはわたしがほしいと思っているものをぜんぶ持っているのに、わたしはきみの持っているものをなにひとつ持っていないんだよ。

 

もちろんわたしがほしいと思っているものときみがほしいと思っているものは違うのだろうし、きみがほしいと思っているもののうちいくつかをわたしは持っているのかもしれないけれど、だからきみはわたしのそばにいるのかもしれないけれど、それでもそれはわたしのほしいものではないからわたしには見えなくて、わたしはただわたしのほしいものをわたしが持っていないことに苦しんでいる。

 

こうなるとわたしはもうこのあいまいな、きみと見た水族館のくらげみたいにゆらゆらした考えを、ふんわりと文章としてあらわすしかないわけで。それだけがわたしの唯一の逃げ道なわけで。

それなのに、きみはきみの確固とした考えを文章にしはじめるから、しかも困ったことにそれはわたしの大好きな文章だから、逃げ道すら奪われたわたしはもうどこにも逃げられず、きみの横でただうずくまってお腹の痛みに耐えるしかない。

 

ほんとうに残酷だな、神さまも、きみも。

仮想的有能感

 

という言葉を知った。

明確な根拠なく自分が周りよりも優れていると感じること、らしいのだけど、なんだそれ、わたしじゃないか。

 

何をどうやっても天地がひっくり返って羊がカーカー鳴いたとしても絶対好きになれない、分かり合えない、そういう人って誰にでもいると思う。

そんな方々とへらへら笑って仲良しこよしなんてしても疲れるだけだから(多くの場合は疲れるのはこちら側だけだし)、できるだけ距離を置いて必要最低限の関わりしか持たないのがベストだと思う。一般的にもそうだと思う。少なくともわたしはそうしたい。

のだけど、どうしてもこうしてもそうできない人もいるわけで。というか、そういう人に限って距離を置くのが難しい立場にいるからみんなこうやって悩んでるわけで。わたしもそういうありふれたみなさんの中の一人なのだけど、これがもう本当にキツい。

どう考えたっておかしい言動を平気でかまして平気な顔してるあの人たちは、わたしたちの柔らかくてかわいいピンクな部分をめっためたのぎったぎたにして、それでもそれに気づかない。そうして傷つくのはわたしたちだけで、わたしたちは賢いから自分たちについたこの傷は理不尽で非合理的なものだとわかっているのだけど、加害者たちはわからないから傷つけてるわけで、わかってもらおうとするぶん傷つくのはわたしたちで。ずるいや、そんなの強いのは圧倒的に向こう側じゃないか。だってあっちは知らないから、わからないから、を武器にそのまま好き放題できるんだもの。

こうしてわたしたちは日々傷ついて、その傷を各々ぺろぺろ舐めながら暮らしてる。とすると、仮想的有能感に浸るくらいの権利、わたしたちにくれてもよくないですか?わたしたちがこんなに辛い思いをしているのはわたしたちがあの人たちより優れているからで、あの人たちは物の分別がつかなくて暴れまわる子供みたいなものだ、って辛い状況を合理化するくらいのこと、許してくれてもよくないですか?そりゃそんなものに明確な根拠なんてないけれど、だってそうでもしなきゃわたしたちにはこの人生はしんどすぎる。

もちろんわたしたちは誰かにとってのあの人たちなのかもしれないけど、そうかもしれないと思っている点ではあの人たちよりは優れてる。そうして騙し騙しでも生きてかなきゃならんのさ。辛いのは自分だけじゃないって言葉は嫌いな人が多いけど、これに関しては本当にそう。おたんこなすなあの人たちと戦ってるのは自分だけじゃないし、わたしたちは賢いから大丈夫。

仮想的有能感、万歳。わたしは偉いぞ!

発火、シロップ

 

また赤い1週間。

 

お気に入りの下着にべたりと居座る鮮血、トイレットペーパーに付着して水に浮かぶそれ。

女性はみんな戦ってるだなんていうけれど、毎月やってくるこれは戦いなんかじゃない。わたしの中身が居場所をなくして、なくなったそれを求めて出てくるだけ。居場所なんかないのにね。

 

思うにこの赤はもともと赤くなんてないのだ。ただこうして出てきて気づいてほしくて発火して、その瞬間、赤く赤くなるのだ。パッと発火して、甘く香って、くるくる丸めて捨てられるだけ。そのためだけに、それはからだいっぱいの熱を使って発火する。

 

一瞬だけでいいのだ、だってその一瞬でわたしたちは赤に捕われる。その甘いシロップは、発火してから1週間、ずっとわたしを居場所とするのだ。まったく迷惑なこった。わたしですらいっぱいいっぱいなのに、わたしの中に居場所のない、わたしの中身なんかに居場所があるもんか。

 

くるくる、ぽい。くるくる、ぽい。

せめて薄荷のシロップなら、空でも何でも飛べるはずなのになあ。

 

知る幸せ、知らない幸せ

 

いっぱんに、知ることと幸せはイコールで繋がれることが多いように思う。

幸福についての一般論なんてものを考えることじたいが馬鹿げているのかもしれないけれど、まあ一般的にいえばそうなのだろうと思う。

のだけど、それと同時に、「知らないほうが幸せなこともあるよ」というようなセリフも、(多くは自分の知を鼻にかけた、上記の考えに基づく人によるものなのかもしれないけど)ごくありふれたものとして存在している。馬鹿みたいだけど。

 

まずだいいちに、「知ること≠知っていること」なんだけど、いっぱんに幸せと繋がれている「知る」はこのふたつがごちゃまぜになってるんじゃないのか。

 

自分の知らない何かを知ることは確かに嬉しくて、楽しくて、幸せなのだけど、いったん「知る」ことを経験しおえて(終えるという表現でいいのかは微妙だけど)、それを「知っている」という状態になってしまうと話は違ってくる。

「知っている」という状態になるまでには、絶対に「知る」喜びを経験してるわけで、「知る」というその瞬間の幸せを「知っている」以上は「知る」ことを求めずにはいられない。だからただ単に「知っている」だけの状態では幸せは得られなくて、本当の意味で満足することはできない。「知る」ことの幸せを知っているひとびとにとっては、「知らない」ことは不幸であり、同時に「知る」余地が残っている幸せでもある。

 

となると、「知らない」ことはどうだろうか。特に「知る」喜びを「知らない」ことは、それを「知っている」人にとっては不幸なのかもしれないが、当のその人たちはその喜びを「知らない」のだからそれを不幸と感じることはない。「知る」行為をひたすらに求め続ける辛さを味わうこともない。かれらは現状の外のことを知りたいと思わず、満足している。つまり「知らない」ことは幸せだと言えるのかもしれない。しかしいったん「知る」幸せを知ってしまうと、「知らない」幸せはとたんに消え去ってしまう。

 

「知る」ことが幸せだと「知っている」状況下では「知る」ことは幸せだが、「知る」幸せを「知らない」状態だと「知らない」ことが幸せとなりうる。「知っている」状態は「知る」幸せを永久に求め続ける地獄でもあるし、「知らない」状態は「知る」余地をふんだんに残した幸せな状態でもある。

 

 

つまりはそういうことだ。

知ることが幸せなこともあるし、知らないことが幸せなこともある。

やだなあ。わたしの大嫌いな世間のいうことは、結局いつも正しくて本当に嫌になる。