惹かれる
そもそも人は自分が持ってないものを持っている人に惹かれるはずなのだけど、ねえ、神さま、この仕組みはどうも残酷じゃないですか。
わたしのすきな人は趣味も特技もすきなことも欲しいものも行きたい場所も確固とした考えもぜんぶ持っていて(すくなくともわたしにはそう見えていて)、それらはわたしが持っていないもので、ずっと欲しいと願っているもので。
わたしが持っていないものをすべて持っているその人はわたしにとって非常に魅力的で、きれいな宝石なのだけど、じゃあその人が持っているものを持っていないわたしはその人にとって何なのだろうかと、ふと気付くとどうしようもなく逃げ出したくなる。
きれいですてきだから近づきたくなって、でも近づくとじぶんがきれいですてきじゃないことに否応なく気づかされて、でもきれいですてきだからその場から逃げられなくて。
わたしはわたしにわたしのことを大好きになってもらえるようにわたしの身を振って、その結果として自己愛のかたまりとしてのわたしができあがって、あたかもわたしは何でも持っているような、どんなことでもできるような感覚を持ってしまう(実際わたしはわたしがいちばんすごいと思っているし、その考えは宇宙一正しいと思っている)。
のだけど、そうして出来上がったわたしのそばにいることをいざわたしのすきな人が選んでくれたとき、ずっと目をそらしてきたわたしは本当はなにも持っていないという事実と、その人が選んでくれたわたしのかたちがぐちゃぐちゃにぶつかって、お腹の右奥のほうがずきずきと痛みだす。だってきみはわたしがほしいと思っているものをぜんぶ持っているのに、わたしはきみの持っているものをなにひとつ持っていないんだよ。
もちろんわたしがほしいと思っているものときみがほしいと思っているものは違うのだろうし、きみがほしいと思っているもののうちいくつかをわたしは持っているのかもしれないけれど、だからきみはわたしのそばにいるのかもしれないけれど、それでもそれはわたしのほしいものではないからわたしには見えなくて、わたしはただわたしのほしいものをわたしが持っていないことに苦しんでいる。
こうなるとわたしはもうこのあいまいな、きみと見た水族館のくらげみたいにゆらゆらした考えを、ふんわりと文章としてあらわすしかないわけで。それだけがわたしの唯一の逃げ道なわけで。
それなのに、きみはきみの確固とした考えを文章にしはじめるから、しかも困ったことにそれはわたしの大好きな文章だから、逃げ道すら奪われたわたしはもうどこにも逃げられず、きみの横でただうずくまってお腹の痛みに耐えるしかない。
ほんとうに残酷だな、神さまも、きみも。