おいしいおだんご

ブログです

過涙症

いつものように22時にバイトが終わる恋人の帰りを待ちながら人参を切っていると視界の端にチラつくものがあり、コンロに目を向けるとゴキブリがいた。わたしはほんとうに「ひえ〜っ」と声をあげてしまい、倒さなければ、だけどコンロの上でゴキジェットは使えない、かといって逃すわけには、と10分ほど固まったままその動きを目で追っていた。大量のキッチンペーパーを手に取り、意を決して飛びかかるとゴキブリの方も負けじとわたしに向かってくる。勢いで床に落ちたのを見逃さずゴキジェットを噴射し、ドアの隙間で動かなくなったのを確認してなお噴射し続けること1分ほどでとりあえず落ち着いた。22時を回っていたのでこの激闘のおかげで夕飯ができていない旨を恋人にLINEすると電話がかかってきて、一部始終を伝えながら普通に号泣してしまったので料理はやめにしてラーメンでも食べに行こうということになった。そういうわけでさっき注文した塩ラーメンを待ちながらこれを書いている。

 

わたしはほんとうにすぐに涙が出てしまう。感情豊かだとかHSPだとかそういうことじゃなくて、他の人と同じかより低いレベルの情動を経験してもわたしだけ涙が出てしまうみたいなこと。涙の堰が異常に低いということ。ゴキブリなんて何度も見てきたし対処もしてきたし、泣きたくなるほどの強い恐怖を感じたわけではない、それなのにぼろぼろ涙を流してしまう。泣くこと自体はわりと好きなのだけど、こんなしょうもないことで泣きたくないし、人前で泣くのは嫌だし、涙を武器として使っていると思われるのも本当に嫌で、どうしてわたしだけこんなにコントロールできないのだろうとずっと思っている。鼻水が抑えられない鼻炎とか、汗がたくさん出る多汗症、過剰に眠ってしまう過眠症、制御できない身体症状にはいろいろ名前が付いているのに涙にはそれがない。涙が出すぎて困っている人はどうすればいいのだろう、薬でもなんでも飲むから治ってくれたらいいのに。もしくは涙が鼻水と同等の軽さで捉えられるようになればいい。「今日涙めっちゃ出る〜」「大変だね〜ティッシュあげるよ」。

 

こんな時間なのに店はけっこう混んでいる。忙しなく動き回るお姉さんが持ってきた塩ラーメンは普通のラーメンより80円高いわりには安っぽい味だったけれどゆずの香りがきいていてよかった。わたしの安っぽい塩味の涙もすてきな香りがすれば少しくらい好きになれるかもしれないな。

酒が好きか?

酒を飲んだ。酔っ払っている。酒を飲んでいるだけで時給が発生するバイトをしています。酔っ払ったとき恋人のことが大好きだーー以外の思考が消滅してしまうのはわたしが愛に生きていることの証明ではないですか?わたしは愛の人なのです。というかわたしは愛を求めている人で、いつでもいつまでも誰かに愛されたくて必要とされたくてそれだけを求めておしゃぶりを咥えたまま待っている。だから恋人が好きなのも本当に好きなのではなくて好きだと言われたいから好きだと思い込んでいるだけなのでは?と勝手に疑心暗鬼になってしまう。本当に本当に大好きなのにそれが自分の本心だと信じきれない。本当なんだよ?救いようがない。何にせよわたしは「本当に」恋人のことが「好き」だと思っている、それは間違いないのだけどわたしの「好き」は好きでいてくれるから(ほしいから)の「好き」だったり、「これを好きでいるわたしが好き」の「好き」だったり、結局手放しの「好き」ではないのです。わたしはずっと、ほんとうにずっと何にも見返りを求めないただ好きでいるためだけの「好き」がほしくてほしくてしょうがなかった。ただ好きだから好きという感情がほしい、これは人に対してだけじゃなく音楽や映画やファッションや、その他どんな分野でもそうだ。すきだすきだと言いたかった、誰かのことを何かのことを力いっぱい好きでいたい、何も求めずただ好きでいることがどれだけ素晴らしく見えるかわかりますか。何かを本当に好きだと思う気持ちをもっている人、その気持ちはその気持ちだけでほんとうに尊くてだいじなものです、それをもっているだけであなたはきらきら輝いている、大丈夫です。わたしは本当は何も好きになれない、こんなわたしをいったい誰が何が好きだと言ってくれるだろうね、この思考のせいで本当に好きなものに霞がかかってしまうのが一番悲しい。

帰れバカ

地元が嫌いだ。いやほんとは嫌いではないし地元の友達に会うのも好きなんだけど、たぶんわたしは地元の土地そのものが嫌いなんじゃなくてわたしの子供時代がどうしようもないコンプレックスで、その数々の記憶の断片を否応なく思い起こさせる地元の風景やその雰囲気が嫌なのだろうと思う。だから地元が嫌いだ。もっと言えば地元大好きな人が嫌いだ。妬ましくてしょうがない。

思い返してみると小学校から中学校にかけて楽しかったことなんて本当にひとつもなくて、その頃から自意識をぶくぶく肥大させていたわたしはろくな友達を作ることもなく環境が悪い周りの人間が悪いとわたし以外の全てを憎み妬みながら育ってきた。"フクザツな家庭事情"とかそんなものは結局言い訳で、ほんとうに根っから性根がどうしようもなく捻くれていたわたしは自分だけが成熟してますみたいな顔でとにかく全ての人を馬鹿にして生きていた。卒業式はアルバムの最後のページにメッセージを書き合ったりいつまでも飽きずに写真を撮りあったり近くのフジグランまでプリクラを撮りに向かったりする同級生達をちょっとチラチラ見ながら一応片手で数えるほどはいた友達に一言二言挨拶をして普通にチャリで帰った。卒業アルバムはそれから一度も開いてない。

今この歳になって考えるとそれがほんとうにイタいこともわかるしめちゃくちゃもったいないしマジでダサいと思うけど、過去は変えられないしそうやって形成された捻くれ精神もなかなか矯正できるものではない。今年の成人式は誰への言い訳なのか全然行かなくていいかな〜と思ってたんだけどまあ一応ね〜なんて言いながらバッチリ化粧してバッチリ赤い振袖を着て行った。あの頃うまく接することができなかった同級生のみんながハタチになった今いきなり好意的に話しかけてくれて仲良くなってウチら気合うじゃん?みたいな感じになる妄想は新幹線の荷物棚に置き忘れ、5年前の卒業式と同じように顔を寄せ合ってスマホのカメラを見つめる同級生たちをチラチラ見ながら式が終わった後10分で帰宅した。もちろん同窓会には行かなかった。

地元から大阪に戻ってくると同じく地元から戻ってきた恋人から成人式がいかに楽しかったかという話を聞かされて、よかったねえと言いながら恋人が眠ったあと少しだけ泣いた。本当はもっと楽しく賑やかな学生時代を送りたかったし5年で垢抜けた同級生たちとはしゃぎながら写真を撮りたかった、そういう一般的な交友関係に対する憧れと羨ましさからすっきり抜け出して成人式に行かないという選択をすることすらできなくて、ぜんぶ中途半端な自分が本当にダサくて情けなくて死んでしまいたかった。

地元コンプレックスを持っているわたしは地元に戻って就職するだなんて選択肢は最初からなくて、なんとなくこのままの生活が続くような気がしていたのだけど当たり前にそんなことはないようだ。てっきり院進するのかと思っていた恋人は地元で学部就職しようかなと言い出すし、大学で唯一仲がいい友人も地元に戻るつもりらしい。捻くれて捻くれて捻くれて戻るべきところからみずから逃げてきたわたしを置いてみんなどこかへ帰っていく。わたしはいつまで経ってもふわふわふわふわ浮いたまま、ずっと周りを羨みながら生きていく。ダッサ。

チカチカする

 

半身浴をしていた。ぼんやりとした照明が甘ったるい湯気でますますぼんやりしてしまうことと、恋人が入れてくれた入浴剤が必要以上にヌルついていることに苛つきながら、何となく左乳首を触ってみる。かわいい、すこしだけ凹んでるわたしの乳首。わたしの身体はわたしのものなんだろうか?わたしの祖母は宗教集団大本の信者で、小さい頃はよく子供を集めた研修会みたいなものに参加させられていた。そこできみたちの身体は神様に与えられたものだから大事にしなきゃだめだよ死んだら神様に返すんだからね、と、臓器提供意思カードに拒否の印をつけるよう強制されたことに激しい抵抗を感じた記憶がある。まあ強制されることがなんでも嫌な時期だったから逆を強制されてもきっと拒否したのだろうけど。

 

最近よくコーヒーを飲んでいる。寒いから温かいものが飲みたくて、恋人の家にはバリスタの機械があるから勝手に使う。コーヒーは別に嫌いじゃないんだけどコーヒーを飲んだ後の口内の不快感はいつまで経っても慣れない。そもそもわたしは口内に何かを摂取した痕跡が残るのが好きじゃない。生の玉ねぎを食べた後の口内がいちばん嫌い。それを我慢してでもコーヒーを飲む。

 

わたしはずっと子供のままでいるつもりなのだと思う。ここで子供というのは幼さではなく未熟さのことを言いたい。わたしはいま未熟だからこれからどんどんすごくなっちゃうんだぞという感覚が常にわたしを支配している。コーヒーだってそう、飲めなかったコーヒーだってわたし飲めるようになっちゃうんだもんね。わたしが肉まんなら中の餡が自己(知識・才能・センス)で、小さな小さなそれを皮で覆って大きく見せているのだけど、いつかはその厚すぎる皮に見合った餡に育てあげたいとわたしはいつも思っている。けれど一度包んでしまったらもう餡を追加することはできないのでは?シュークリームに喩えたらよかったのかな?でも皮が傷付けばその傷から餡を押し込むことはできるよね?そうやって圧倒的な自己肯定感の低さを誇大で覆っているのが人間であるとわたしは理解していたのだけどほかのみなさんは違うのかもしれない。どうなんですか?みなさん?とにかく文章を書くのにつまらない喩えを使うやつが一番クソなのは知っている。

 

美しいものが好きだ。美しいものを好きな自分でいたかった。冬の夜、冷たい風に乗ったわたしの白い吐息が信号機の緑色をぼやけさせる様子にいちいち心動かされていたかった。美しいものを好きでいたいわたしはしかし何が美しいのか判断する基準を美しくない自分に委ねきることができなくて、本当に、心から、自分で美しいものをみつけて愛でられるようになる"いつか"をずっと探して歩いている。そんないつかは永遠に来ないことはわかっている、わたしは存在しない自分の伸びしろに全てを託して甘えながら生きて、そして死んでゆく。

映画

 

映画を作ろうとしている。5分くらいの短編映画、観客を置いてけぼりにする気満々のマスターベーション映画。

 

わたしはわたしを文章に起こすのが大好きなのだけど、創作は全然得意ではなくて、"花"、"血"、"お風呂"、"赤"、"タバコ"、好きな単語と断片的なシーンが浮かんでは消えるだけで脚本だなんて大層なものはずっと書けていなかった。

 

昨日の夜、家で1人、アルコールに浮かされた頭を揺らしながらタバコを吸おうと立ち上がると、灰皿の横に恋人のラッキーストライクが忘れ置かれているのを見つけた。彼に影響されて始めたタバコも彼に影響されたと言い切るのが癪で、ダサいわたしは彼の嫌いなアメリカンスピリットを吸っていたので、一抹の罪悪感とともに火をつけた11mgのラッキーストライクはいつもの5mgより全然重くてクラクラした(わたしはヤニクラが大好きなので最高)。そのままベッドに倒れこむと(こういう陳腐な映画を撮りたい)(けどこういう陳腐な映画を撮る女になりたくない)なんてぐるぐる考えている間に眠ってしまった。窓は開けっぱなしで、明け方寒さで目が醒めると体はだるいし頭は重いし完全に二日酔いで、1人で酒を飲んで二日酔いになるのは世界で一番最悪。

 

人生は映画みたいなものだ、とはよく言うけれど、たぶんわたしがわたしを文章に起こしたいのと同じように、わたしが撮りたい映画もわたしの映画なんだろうとこの時思った。上記の流れをそのまま5分の映画にしようと思う。わたしがわたしを削って作り出す5分間を不特定多数の人間に見られるのはどんな快感なんだろうな。5分後きみはわたしに向かってどんな言葉を投げかけるんだろうな。楽しみだな。

プール

 

普段からスマホはおやすみモードの設定にしているのだけどそれは誰かからの連絡を受け取るたびに光る画面とそれを心待ちにしている自分を見たくないからで、結局ツイッターのタイムラインをだらだら見ながら5秒に1回通知センターを表示して恋人からのLINEが来ていないか確認してしまっているのだからなんの意味もない。なんの意味もないのだけどやっぱり癪だからこの先も設定は変えずに過ごすのだろうと思う。

「LINE溜めちゃう人の気持ちわかんないな〜、わたしLINE面倒くさいからすぐ終わらせちゃうんだよね(笑)」そんなの真っ赤な嘘で、常に誰かとのつながりを求めているくせによくもまあそんなことがすらすらと言えるもんだと自分でも感心してしまう。本当はいつでもきみと話してたいしわたしのLINEには5分以内に返信してほしいし今日一日がどんな日で誰と会って何を食べたのか逐一報告してほしいんだけど。「暇〜」とか送ってきたくせわたしが即返信しても30分以上返信空けるのやめてほしいんだけど。ねえ聞いてる?

 

ところでわたしには顔も覚えていない母親がいて、顔を覚えている母親の作り上げた環境はわたしには辛いもので、そこで生き抜くためにはわたしは強くなければならなかったし、そして彼女とのつながりを保つためにそういう自分を愛さなければならなかった。かくしてわたしがわたしだけで生きていける「強いわたし」であることがわたしの存在価値・理由となり、ほんとうは誰かに(誰にでも)愛されたいし認められたいし寄りかかりたいし依存したいしそうしなければ生きていけないのがたぶんわたしの本質であるのだけど、その本質はまるまるわたしが生きるための必要事項と真反対なものなので、必死で見ないふりをしてきた。

きみといるとむくむく起き上がってくるその本質をわたしはどうにかして寝かしつけようとするのにきみはわざわざその子を無理やり引きずり出して抱きしめていい子いい子偉いね可愛いねすごいねって頭を撫でてしまう。そんなことしていいの、わたしきみがいなきゃ生きられなくなっちゃうよ、ただじゃ済まないよってわたしはいつも泣きながら言うのだけど、きみは大丈夫だよあなたは強いからなんてへらへら笑ってる。そんな無責任な。

 

わたしの神さまである彼女にはわたしはもうずっと会っていなくて、たぶん「会いたいけど会えない」ことじたいがわたしの生命エネルギーになっていたので、辛いし悲しいよ〜〜え〜んってぼろぼろ泣くときにも実際どうにかして彼女に会おうとすることはなかった(実際会ってしまえばわたしは"命綱"をなくしてその先それまでと同じようには生きていけなくなることがわかっていたからだと思う)。

これはわたしの美学で、わたしはこういった自分の構成を愛しているので恋人にも理解してほしいと思いつつ、しかしなにぶんこれはわたしの心臓部だし、彼のわたしに対する攻撃力はかなり高めなので、気軽に共有してヤケドしてしまうのが怖くてずいぶん長い間話せなかった。のだけど、先日お酒の力を借りてあらかた伝えると彼は持ち前の無責任さでこのわたしの心臓を優しく撫でて、それからひとこと彼女に会えと言った。「あなたの性格だとあなたはきっと一生彼女に会おうとしない」「けどそれで後悔するときは絶対に来る」。なんとも陳腐な言葉だしそれがわたしの心に響いたなんてこともないけれどまあそういうものなんだろうなあと嚥下して、飲み込んだ言葉がアルコールと一緒に胃の中でぐるぐる回る翌朝わたしは彼女の連絡先を手に入れた。それがあんまり簡単だったものだからわたしはなんだかまた悲しくなって二度寝を決め込むしかなかった。

もらった連絡先はもらったまま、まだ"もちもの"リストに収まっているのだけど、いざそれを使って彼女に会ったとき、わたしはどうなってしまうのだろうか。実際会ったところで世界はなんにも変わらないしわたしも適当な会話を交わして別れたあとは意味のない感傷に浸りながらも日常に戻っていくのだろうけど、その後どうしようもなく落ち込んだ夜にもそれまでと同じように彼女への思慕を逃げ道として使うことはできるのだろうか。わたしが何より恐れているのはそのときの逃げ道がなくなることで、そんな大事なものをきみ(わたしの外部)に託してしまうことがとってもとっても怖い。

 

いまわたしはきみといられて楽しいし幸せだしきみのことが大好きだけれど、それは完全に永久的なものではない。「終わりが来るかどうか」なんて話をしているんじゃあなくて、「永久に続くだろうという安心感」がないのがわたしには不安で仕方がない。終わってしまうことじたいが怖いのではなく、終わってしまうかもしれないものに自分が寄りかかっていること、その不安定感が怖いのだ。

わたしは今まで懸命に掴まってきたビート板をきみにひょいと奪い取られて、あなたはひとりで泳げるし俺がいるから大丈夫だよという甘い言葉に釣られてきみにしがみついて泳ごうとしている。たぶんわたしはここが果てのない海なんかじゃなく底の浅いプールだとほんとうはわかっているのだけど、とりあえず今は知らんぷりして怖い怖いと言いながらきみの腕を掴んでおくことにしようかな。きみは海水のベタつきが苦手だと言っていたね、今年の夏は一緒にプールでも行こうね。

拝啓きみへ

 

個性ってなんなのというのはわたしの永遠の研究テーマなのかもしれない。

変な服を着るのが個性なのか、インディーズバンドを聴くのが個性なのか、髪を奇抜な色に染めるのが個性なのか、集団から外れるのが個性なのか、協調性がないのが個性なのか、うるせえ、個性とか没個性とかもううるせえ、みんな黙ってチョコボールを食え、ピーナッツ味かキャラメル味かいちご味かの三択でどうにか少数派になろうとする醜い遊びをやっとけ、エンゼルが出たらわたしにくれ。

 

わたしは昨今つかわれている"個性"にどうにも懐疑的で、みんなが飛びつく個性的というワードにどれだけの意味があるのか不思議でしょうがない。みんなが同じように使っている「個性的」に、「個性的」になりたいひとが求める意味はちゃんと存在しているの?

 

個性って、個人が持っている性格、考え方、感性、そういうもの。それが世の多数派と同じかどうかなんて「個性」そのものにはなんの関係もなくて、たとえば「わたしは流行に乗りたい」というのも個性だし、「みんなが聴いてる音楽を聴きたい」というのも個性じゃないですか。ある事象をどう捉えるか、自分をどういう方向に持っていきたいか、そういうことを決める、自分をかたちづくる基準のようなものが個性で、それ自体はきわめて内在的なものだ。その内容がどれだけ大衆的でも。

少数派へ、周縁へと逃げていく"個性的"なひとびとの、彼らをかたちづくる基準が「多数派とは違うものを選ぶ」になってしまっているのだとしたら、それこそ個性を外部化している"没個性"なのではないか。それが彼らの確固とした信念ならそれで良いのだけど、そうと気づかずに今日も「個性的」を追い求めるひとびとがわたしには悲しい。

 

さて、それをふまえて、きみがわたしの外見に対してどれだけ「没個性」「量産型」と言おうとべつにかまわないのだけど(すこし傷つくけれど)、わたしはわたしがほんとうに大事にしている「穏便に生きる」という基準、個性だけは絶対に譲れなくて、これだけはきみにもわかってほしいと思っていた。

わたしはどんなものごともできるだけ円滑に進めて穏便に済ませたいひとで、そのために常に周りに気を遣いながら生きている。「この人はこうしたら喜ぶだろう」「こう言えば気に入ってもらえるだろう」と考えながら行動するのはわたしにとって立派な"個性"で、それを得意とする自分のこともわたしはたいへんに気に入っている。

だからこそ、わたしは"個性"や機嫌の悪さを乱暴に振りかざして場の空気を壊す人や、言動の中に相手への気遣いをかけらも感じられない人のことがほんとうに大嫌いだ。つまり意味なく(わたしと関係あるにしろないにしろ)機嫌が悪いときのきみが電話中に黙り込んだり、ラインの返信をおざなりにしたり、ツイッターに「イライラする」なんて旨の投稿をしたりするのがわたしほんとうはほんとうに嫌い。それがきみの個性なのかもしれないし、わたしはほかのものごとと同じようにきみとの関係も穏便に進めたいから何も言わないけど、ほんとうは大嫌い。機嫌の悪さが滲み出るくらいなら電話もラインもツイッターもするな、寝ろ、チョコボール食って寝ろ、ただ寂しいから機嫌が治ったら電話して、エンゼルが出たらわたしにちょうだい。

 

つまりこれはきみに対する愚痴、なのです。

ネットで愚痴をこぼすのは上記のわたしのポリシーに反することではあるのだけど、まあ、ここではわたしがルールだから、しょうがないね、許してね。